辺境に行きたい
深夜二時の風邪も徐々に好転しつつある。病み上がりかつ睡眠不足が決定している明日のバイトが憂鬱である。結果、気の紛らわせにこの記事を書いているわけだが、疲労は増すわ眠気は遠のくわで全く矛盾したことをしているなぁと思う今日この頃である。
さて、我が大学の偉大なる先輩である市川紗椰さんが、プレイボーイの連載でとある羊肉やを紹介していた。そこでいつものネットサーフィンである。紹介のお店は中華のお店だった。めちゃくちゃにうまそうである。中国の故事にもチラチラ登場する人肉食も、この肉の扱いのうまさをみるとなんとなく納得が言ってしまうので少し恐ろしい。https://www.google.co.jp/amp/s/rocketnews24.com/2017/07/01/919322/amp/
連鎖的に、札幌の名店だるまを思い出した。あれは本当にいくらでも食べられるうまさがあった。いわゆる普通の焼肉の、胃にガツンとくる感覚とは違う。継続して不満なく食べられる味なのだ。ポテチ然り、この安定感こそ本当の中毒品である、と私は思っている。
札幌という街は夜の街だ。そして、歌舞伎町など比にならないくらい、本当に魔の街なのだ。
何が魔力かって、とにかく食べる飯が全てうまい。何もかもうまい。名店のスープカレー、屋台のザンギ、お洒落な懐石ランチ、食後のコーヒー、海鮮、じゃがいも、北大学食の牛トロ丼。そしてだるま。
常にそれらを脇役として支えるサッポロビール。
そして、締めにはパフェを食らうという狂った文化まで存在するあの街は、夜でもやたらとテンション高く煌々と光続けており、東京のどことなくどんよりした雰囲気を全て吹っ飛ばしてそこにいらっしゃるのである。
もう一つ思い出に残る旅があった。大分空港で車を借り、神仏習合が色濃く残る国東半島を巡り、中津にて一泊した。北海道を羊の国とするならば、九州は鶏の国だ。さらっと一人で入った居酒屋の、夜飯定食がなんとうまかったことだろうか。そこで浴びるほど飲んだ芋焼酎のうまさは今でも忘れられない。九州の焼酎もまた、偉大なる中毒品の一つである。
いずれにせよ、辺境の地で頂く食事と酒は格別である。また旅をしたい。
幸運なことに、私にはまだモラトリアムの時間があるのだ。遊びたい。人生の夏休みを延長して、少しでもだらけていたい。そんな思いを強くする今日この頃であった。
ワンカップを飲む代わりに
酒を飲む。その意義はなんだろうか。
人との快活なコミュニケーションの為、と答える人もいるかもしれない。少しの油断をお酒の力でお互いにもたらし、口を滑らせ、相手への信頼感を獲得していく。それは、実に理想的なお酒のスタイルに思える。
では、純粋に酩酊が好き、と言う場合はどうなのだろう。何故人は、酩酊を求めるようになるのだろうか。
こういった疑問は、大抵偉大な先人たちが既に語ってくれているものである。ここでの先人は、中島らもと言うアル中作家だ。
彼はひたすらに酒を飲んでいた。「長い期間、四六時中」と言うのだから、トンデモない量を飲み続けていたのだろう。肝臓を完全に煩い入院した彼は、おそらく彼の実体験を元に、アルコールが抜けつつある時の精神状態について、こんな風に語っている。
アルコールが抜けたときの心もとなさは、メガネを失くした不安を何十倍か強烈にした感じだ。おれはずっと酩酊がもたらす、膜を一枚かぶったような非現実の中で暮らしてきた。酔いがもたらす「鈍さ」が現実をやわらげていたのだ。それがいま、先端恐怖症の人間に突きつけられたエンピツの先にも似た、裸で生の世界が鋭角的に迫ってくる。(「今夜、全てのバーで」p107(講談社文庫、1994年))
酒を飲む意義は、現実逃避の手段である。彼の意見は至極単純であり、そして明快だ。
一時期に比べれば随分減ったのだが、時々、未だにどうしても眠れない夜が訪れる。眠れない原因は、大抵現実のことだ。時折妄想すら入り混じる思考は、暴走するとなかなか終わりが見えなくなる。そこで頼るのが、お酒だ。
酒を飲めば頭がぼんやりし、思考の回転速度は落ちていく。何もかもがどうでもよくなり、次第に眠りの海に沈んでいく。実に便利なドラッグである。
だが、翌朝の二日酔いは、むしろ寝ない方が良かったのではないかと思うほど、精神を落ち込ませる。
何故落ち込むのかといえば、睡眠と酒に酔って逃避した現実が、嫌という程はっきりした形で襲いかかってくるからだろう。
分かるなんて気軽に言っていいのかは分からないが、中島らもの気持ちは痛いほどよくわかる、と僕は思っている。
思い返せば、高校時代もよく思考が暴走し、なかなか寝付けない日々を過ごしていた。寮生活でこっそりお酒を飲むこともできない当時の自分は、音楽に頼っていた。四畳半もない部屋の中で、坂本龍一をスピーカーから流し続け、心を落ち着けてどうにか睡眠をとり、朝の起床に備えていた。
そして、22歳の今日も既に午前3時を迎えている。ただ、今晩は心が安らかなのである。それは、古いドラッグを再度見つけた、再発見の嬉しさからだと思う。
ハナ肇とクレイジーキャッツ。少し前までは歴史の人物と同じような名前に聞こえていた。しかし、SAKEROCK時代の星野源と、 eastern youthの吉野寿によって歌い継がれた、その悲哀と可笑しみに満ち溢れた歌は、平成が終わろうとしている2018年のこの世でも、ダメダメの青年の心の中に、しっかりと響いてくるのである。
ワンカップを飲む代わりに、頭をぼやかす代わりに、この曲を聴いて眠ろう。
http://sp.nicovideo.jp/watch/sm17081347
ブログはじめました
がつぽんず(Twitter @gatsupons)というバンドでベースを弾いている、さいたにっと(Twitter @nittotsuchis)と言います。突然ですが、ブログをはじめてみたいと思います。以下、その理由を述べたいなあと思っております。
開設の動機・理論編
先日、とある友人と「Twitterは文章が短すぎて、言いたいことが全て伝わらない」と言う話をしました。たしかに、140文字だけで伝わることはものすごく限られています。
最近のSNSの騒動を見ると、大抵文間を読めと主張する人と、文間が読めない人々の争いになっているような気がします。誤解塗れで混線したツイッタランドから逃れるには、140文字の呪いから解放されなければなりません。
そう考えると、手っ取り早く簡便に、なおかつそれなりの文章量で世間に公開することのできるブログは、(もちろん炎上がゼロとは言いませんが)割と重要な立ち位置にいるのではないか、そう考えました。
そんな気持ちでブログを開いて見た次第です。Twitterで気軽な発言ばかりするのではなく、長文で一文一文噛み締めながら文章を作り上げていく。そんな生活も悪くないかな………なんて思いながら毎日を綴っていこうと思います。
開設の動機・衝動編
と、謎の社会に対する上から目線かつ激痛なクソ意識高い系みたいな文章を0と1の世界に垂れ流していますが、社会的に見ると完全にフワフワした22歳留年大学生の僕は、強く社会に発信したいメッセージもこれといって特になく、かといって毎日空の写真を撮るほどネイチャー主義者でもありません。書くネタに困ること間違いなしです。
第一、Twitter批判してる割に1日の半分くらいをTwitterでのつぶやき観察に費やしている僕に、そんな長々と物事を書こうという気があるかどうかすら危うい。
しかし、がつぽんずギターボーカルのあべまえば君のTwitter(@AbeAbe1994)から、こんな記事が流れてきました。
http://abemaeba.hatenablog.com/entry/2018/02/15/211835
あ、なんかいいわ。
文章書いて見たい。
と、フワフワ血迷った大学生にありがちな突発的行動で開設したのが事実です。期待せずに見てください。よろしくお願いします。
p.s
もはやこの文章自体が死亡フラグになっているような気がしないでもない平日深夜でした。