ワンカップを飲む代わりに
酒を飲む。その意義はなんだろうか。
人との快活なコミュニケーションの為、と答える人もいるかもしれない。少しの油断をお酒の力でお互いにもたらし、口を滑らせ、相手への信頼感を獲得していく。それは、実に理想的なお酒のスタイルに思える。
では、純粋に酩酊が好き、と言う場合はどうなのだろう。何故人は、酩酊を求めるようになるのだろうか。
こういった疑問は、大抵偉大な先人たちが既に語ってくれているものである。ここでの先人は、中島らもと言うアル中作家だ。
彼はひたすらに酒を飲んでいた。「長い期間、四六時中」と言うのだから、トンデモない量を飲み続けていたのだろう。肝臓を完全に煩い入院した彼は、おそらく彼の実体験を元に、アルコールが抜けつつある時の精神状態について、こんな風に語っている。
アルコールが抜けたときの心もとなさは、メガネを失くした不安を何十倍か強烈にした感じだ。おれはずっと酩酊がもたらす、膜を一枚かぶったような非現実の中で暮らしてきた。酔いがもたらす「鈍さ」が現実をやわらげていたのだ。それがいま、先端恐怖症の人間に突きつけられたエンピツの先にも似た、裸で生の世界が鋭角的に迫ってくる。(「今夜、全てのバーで」p107(講談社文庫、1994年))
酒を飲む意義は、現実逃避の手段である。彼の意見は至極単純であり、そして明快だ。
一時期に比べれば随分減ったのだが、時々、未だにどうしても眠れない夜が訪れる。眠れない原因は、大抵現実のことだ。時折妄想すら入り混じる思考は、暴走するとなかなか終わりが見えなくなる。そこで頼るのが、お酒だ。
酒を飲めば頭がぼんやりし、思考の回転速度は落ちていく。何もかもがどうでもよくなり、次第に眠りの海に沈んでいく。実に便利なドラッグである。
だが、翌朝の二日酔いは、むしろ寝ない方が良かったのではないかと思うほど、精神を落ち込ませる。
何故落ち込むのかといえば、睡眠と酒に酔って逃避した現実が、嫌という程はっきりした形で襲いかかってくるからだろう。
分かるなんて気軽に言っていいのかは分からないが、中島らもの気持ちは痛いほどよくわかる、と僕は思っている。
思い返せば、高校時代もよく思考が暴走し、なかなか寝付けない日々を過ごしていた。寮生活でこっそりお酒を飲むこともできない当時の自分は、音楽に頼っていた。四畳半もない部屋の中で、坂本龍一をスピーカーから流し続け、心を落ち着けてどうにか睡眠をとり、朝の起床に備えていた。
そして、22歳の今日も既に午前3時を迎えている。ただ、今晩は心が安らかなのである。それは、古いドラッグを再度見つけた、再発見の嬉しさからだと思う。
ハナ肇とクレイジーキャッツ。少し前までは歴史の人物と同じような名前に聞こえていた。しかし、SAKEROCK時代の星野源と、 eastern youthの吉野寿によって歌い継がれた、その悲哀と可笑しみに満ち溢れた歌は、平成が終わろうとしている2018年のこの世でも、ダメダメの青年の心の中に、しっかりと響いてくるのである。
ワンカップを飲む代わりに、頭をぼやかす代わりに、この曲を聴いて眠ろう。
http://sp.nicovideo.jp/watch/sm17081347